出来る、分かるの基準

出来るも、分かるもない。

何かが出来たというのは、規定された基準ではかるからそう見えるのであり、一度その基準が変われば出来たは出来ないになることなど多ある。

かるというのは、出来たに付随することが多いから、出来ないが起こると分からないになる。

出来ない、分からないは居心地が悪い。だから、出来ている、分かっていると思う方が楽である。

そして、出来た、分かるの基準を下げるのである。端的に言えば、自分より出来の悪いと思う人を見たり、指摘したり、比べてみたりする。そうして自分はまだマシだという思いに耽る。これは大変に後味の悪い酒のようなもので、実際には気分が悪い。自身の中に何ら誇りも美学もなければまずい酒に酔うのも一興である。もし、あれば情けないというのが気分の悪さの正体である。

自分は何に取り組んで、何をして、どうなったのか。

こうした視点がなければ、自身の行為を客観的に捉えることなどないだろう。

結果的な出来た、わかったに振り回され、一喜一憂するより他ない。

プロセスというのは、自分が意識的に、あるいは無意識的に使用している基準の変遷といっても過言ではないだろう。

基準の変化は、自分の身に得るまで、膨大な労力が必要である。居つく方が楽である。

指針を手に入れ、自身の現状の出来ない、分からないの居心地が悪くなった時に、どの道を選択するか。

それ次第である。