佐藤正久中国爆撃機6機が、沖宮海峡を通

佐藤正久中国爆撃機6機が、沖宮海峡を通過し紀伊半島沖までを往復飛行昨日のような飛行経路は初めてのケース。尖閣沖ではカワハギ漁解禁に伴い、昨年のように多数の中国漁船や中国公船の侵入がないか警戒監視中だ。海と空、警戒に穴があいてはいけない

僕は農民ですが、両方改善しつつあります。

合理化、省力化、機械化が進んだし農地購入で基盤強化を進めました。今年から農地の整地工事が3年に渡って行われます。これによって更に合理化、省力化、効率化が進みます。今年から6月下旬から半夏休み状態を経験しました。こんな楽な農業は初めてです(*▽)

来年、再来年は更に楽に成るし、労働時間の掛かる作物を止めて田圃を買い増しし、稼ぎを維持しつつ省力化を進められます。3年後には半冬休み状態が始まるし、頑張った甲斐がありました。

■あなたは「給料優先」タイプ? 「休日優先」タイプ?

(TOKYO FM + - 08月24日 12:10)

あはは、こう言う現象って人によって盛り

あはは、こう言う現象って人によって盛り上がり方が随分違いますもんね間違いなくいい思い出にはなりますよ!ウチの娘は皆既月食そのものより自分で作ったメガネで見えたって事にハイテンションでしたw

医者が見なくて悔しい

いま、虫刺されのような腫れがでてきて、痒い。

腫れたり、治まったりと、1か月くらい繰り返している。

先週末皮膚科行ったときは、治まっていた。

腫れて痒くなくても、念のため皮膚科にいったが

先生から「症状でてないとわかんないよ」

と言われ、ガッカリ。

腫れの片鱗は残ってるんだから、診てくれりゃいいのに、

適当な薬を処方されて、効かない。

数日単位で症状がでるので、次に行けるときには

サイクルで、また治まってるかも。

苦しい時ほど行けないではないか!

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エツコナカムラ舞ジュエリーでは、他のシルバーヘッドと共に使える革のチョーカーが人気があります。5mm以上の太い革ひもはなかなか販売されていません。材料自体もまだ手に入りにくい状態のように思えます。カジュアルエレガンスのファッションも楽しめる、太目の革ひもチョーカーは大変重宝します。エツコナカムラ舞ジュエリーのシルバーは、ボリューム感もあるため、太目は大人の女性にはしっくりきてバランスが良く、エレガントです。ステンレスの留め具が通れば、お手持ちのヘッドをとっかえひっかえお楽しみいただけます。白いシャツカラーからチラリと、牛の本革のチョーカーがのぞいたり、セーターの上にもしっくとしエレガントです。この革チョーカーだけでもチャーミングです。径6mm以上は、革にしっかり張りがあるため、画像のように少ししならせると、胸にしっくりとなじみやすくなります。ステンレスの留めパーツは、セーフティーが付いているので、うっかりひっかけても外れないので、少重みがあっても安心して使えます。ステンレスの留め具を留めるとき、外すときは少しねじって外したり、付け

4800(税込)

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エツコナカムラ舞ジュエリーでは、他のシルバーヘッドと共に使える革のチョーカーが人気があります。

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ステンレスの留め具を留めるとき、外すときは少しねじって外したり、付けたりして下さい。

突起がストッパーになっていますから、ただひっぱても外れません。

少しねじって、はめたり取ったりしてください。

慣れるまでちょっと面倒かもしれませんが、安心して一日お使いいただけます。

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【そもそも人間学とは何か】その4

知古嶋芳琉です。

引き続き、

安岡正篤師の講話集、

人間学講話:『知命立命』(プレジデント社)

からの引用です。

−−−

■ 東洋哲学の精粋

○ 「命」とは何か

 <尽心>

 『孟子』盡心章句上より

−−−原文の日本語訳−−−

その心を尽くすものはその性を知る。

その性を知れば則(すなわ)ち天を知る。

その心を存し、その性を養うは、

天に事(つか)うる所以なり。

殀寿(ようじゅ)貳(に:2)ならず、

身を修めて以って之を俟(ま)つは

命(めい)を立つる所以なり。

−−−「立命」の解説−−−

立命」というのは

中国の古典

孟子』の

盡心章(じんしんしょう)の一節にある

「殀寿(ようじゅ)貳(に:2)ならず、

身を修めて以て之れを俟(ま)つは、

命を立つる所以(ゆえん)なり」

から採ったもので、

「人間には、若死にする人もあれば、

長生きする人もあるが、

それは

突き詰めれば

(二つのことではなく、別々のことではなく)

同じことであり、

すべて

天命で決められていることである。

だから

生きている間は

わが身の修養に努めて

天命を待つのが

人間の本分を全うすることなのである」

という考えです。

−−−ここからは本分です−−−

 ここに掲げているのは、

名高い

孟子』の盡心章の中にある言葉です。

「尽心(じんしん)」

という言葉そのものに

非常に深い意味がある。

研究する、

究(きわ)める、

その中に含まれているものを

あますところなく把握することが

「尽」である。

大地、土というものは

実に神秘なものだ。

何が含まれており、

どういう効用があるか、

限りないものであるが、

その大地を部分的に捉えないで、

大地の全部を指すときは、

尽大地という。

我々の心も

研究すれば

研究するほど

神秘なものであるが、

その心を遺憾なく究明する、

解明することを尽心という。

尽力という言葉がある。

「はい。尽力いたします」などと、

皆何気なく使っているけれども、

これは大変な言葉である。

尽力というのは、

力を尽くす、

ありったけの力を発揮することをいうのであって、

ちょっぴり手を貸すというのは尽力ではない。

やかましく言うと、

尽力ということは

容易に言えない。

大変な言葉である。

真理を学ぶとか、

道を修めるということは、

自分の与えられた心を

遺憾なく究明し、

発揮することである。

尽心、知性、知天、存心、養性、事天、立命という

東洋哲学の

特に倫理哲学の根本の問題を

簡潔に提起したものが

この一章である。

「その心を尽くす者はその性を知り、

その性を知れば則ち天を知る」。

「天」、これは大自然といってもよろしい。

宇宙といってもよろしい。

「性」とは心の本体である。

心の最も本質的なるものが「性」であります。

そこで性を知れば天が分かる。

つまり

我々の心を通じて、

その心の実体、

本質を究明すれば、

自然、

宇宙、

その最も主体的なるもの、

それが天、

あるいは

抽象的にいえば神、

それが分かる。

これは

物理学から、心理学から、倫理学から、政治学から、

何学から、

つまり

どこから入ってもいい。

あらゆる学問を追究してゆけば

結局こうなる。

その点において、

これは

間違いのない、

確乎として

動かすべからざる

大原理であります。

ここに

学問の妙味がある。

どんな分科学、

どんな一物からでも、

それを究め尽くせば

必ず

真理に到達していく。

結局、

最後は

大きな宇宙、

天、

といったような問題にぶつかる。

これは

今日の自然科学が

最近になって

最もよくそれを示している。

あるいは

そういう境地に入っている。

この頃は

ありきたりの哲学よりも

科学のほうが

よほど

精神的になってきている。

どうかすると

科学のほうが、

むしろ

真剣に

宗教に

入ってきているといってもよろしい。

 <武者菌>

 たとえば

最も極端な例を言いますと、

武者という細菌学の大家の場合です。

この先生は

人間の腸の中の

いろいろなバクテリアの研究をして、

毒になる細菌を撲滅して

人間の身体に栄養を与えるような、

ありがたい

結構な菌を

抽出し、

それを組み合わせて

武者菌、(M菌)というものを作った。

これを湯か水に入れて

二、三十度くらいの温度に保っておくと

繁殖して、

それを飲むと

腸の中が殺菌される。

よく「あいつは腹が悪い」というけれども、

人間は腹が悪くて

病気をしたり

死んだりする。

つまり

腸が問題だ。

その腸をよく養う。

いわゆる

養腸に

実にいいものが、

このM菌である。

この腸内バクテリア細菌の研究のために、

武者先生は

長年、糞便と取り組んだ。

人間の便を十年も二十年も研究してきた人だ。

真理と取り組もうと思ったら、

便が汚いとか

小便が臭いとか

言っているようではダメだ。

この

武者先生は

人間の糞便を見たら、

この人は

どういうものが好きで、

どういう性格で、

この便は

どこに傷があるということが

わかるそうだ。

そこまでゆかねばいけません。

本当に勉強すれば、そうなるのです。

経験を積んだ考古学者は、

普通の人が見たら

なんだか

わけのわからない

古代動物の骨のかけらを見て、

この動物は

どういう格好の動物で、

何万年くらい前におった、

どういうものだろうという

全体像を想像することができる。

それができないようでは、

まだ一人前の考古学者とはいえない。

果物屋のおやじは

二十年も三十年も商売をしておれば、

柿が生(な)っている、

密柑が生っている所へ行って

見ただけで、

この密柑はいいとか、

この柿はまずいというようなことが

すぐ分かる。

数までわかる。

一本の木に三百個生(な)っておろうが、

五百個生(な)っていようが、

勘定してみたら

十個とは違わない。

とても

素人には

想像もできないものであります。

大きな

複雑な機械が

静かな音をたてて

運転している。

非常に熟練した技術者ならば、

その音をじっと聞いていて、

この機械は完全であるとか、

この機械はおかしいとか、

すぐわかる。

また、

そうならなければ

真の技術者ではない。

書物でもそうです。

私などは

物心ついて

書を読み出してから

もう五十年以上、

今(昭和36年)、

私は

数えで

六十四歳だが、

七歳のときに、

四書、

『大学』

『中庸』

論語

孟子

素読を始めてから、

もう五十七年も

本を読んでいるわけだ。

そうすると、

思想的な書物

精神的な書物は、

手に取って見ると、

この本は

いいとか、

この本は

だめだ

ということを

直覚する。

読んでみてから、

いい本だなと思うようでは、

そもそも

話しにならない。

勘が鈍い。

読まないうちから、わからなければならない。

 <東洋の観相研究>

 よく

観相の大家は

相手を一見すれば、

これはどこが悪い、

どこがいい、

どういう性格で、

どういう能力があるということが

すぐわかる。

顔に書いてあるというが、

本当に顔に書いてある。

今まで科学をやった人間は、

そういう観相などというものは

非科学的であると考えていた。

ところが

最近の科学は

反対に、

これが

科学的真実であるということを

証明するようになっている。

私自身、非常に感心したことがある。

ベルリンへ行って(昭和十四年)、

ある博士を訪ねて

四方山話をしておるうちに、

その頃

ベルリン大学

中国の

人相の書物を集めておるという話を聞いて、

「これは面白い、

どこでやっていますか」

と聞いたら、

医科大学でやっているという。

意外に思って、

医科大学

どこでやっているか聞いたら、

皮膚科で研究しているという。

私は感心して、

訪ねて話し合いたいと思ったけれども、

旅程が決まっていて

そこまで

突き止めずに発(た)ってしまったのですが、

その時に聞いた

概略の話しでは、

人間の皮膚の中でも

顔面皮膚というものは

もっとも鋭敏なもので、

体内のあらゆる機能の末端が

みな顔面皮膚に集中している。

つまり、

過敏点で埋まっているそうだ。

その過敏点を結ぶと

過敏帯という、

つまり

点が線になる。

それは色になる。

したがって

精神状態も

肉体状態も

顔面に鋭敏に現れる。

それが

観相の書物

実によく説明されているというので、

皮膚科学者が

非常な興味を持って、

東洋の人相の研究に着手した。

それで

私は

ベルリンを発つときに、

すぐ

二、三の漢籍の書店に速達を出して、

「貴重な重要な観相の書物

全部揃えておいてくれ、

外国に売らないようにしてくれ」

と言って、

集めさせたことがある。

そうして

数百冊集めたが、

戦災で爆撃を受けて

焼けてしまったのは

非常に惜しいと思う。

そういうものです。

だから

昔の人の言うことに

ときどき驚くことがある。

つまり

これは

経験科学というのか、

長い間に

多くの人が

経験を重ねて、

そこから帰納して

非常な真理を把握している。

今までの科学は浅薄で、

それを実証することができなかったが、

科学が発達するにしたがって、

それが実証されてきている。

そこで

古来の言い伝えであるとか、

古代からの

優れた学者の思想、学説というものは

尊重しなくてはならない。

歴史や伝統を

軽々しく軽蔑したり

否定する人間ほど、

浅薄な、

非科学的な、

非哲学的なものはない

ということが、

学問すれば

するほど

わかってくる。

 <放心>

だから

何から入っていってもいい、

必ず真理に到達する。

その心を尽くす者は、

必ず

その本質とか、

実体とかが

分かるようになる。

それが分かるようになると、

天を知る。

宇宙の本体、

大自然の真理、

宇宙万物を支配するところの

大いなる理法、達磨、つまり法。

東洋哲学の

最も普遍的な言葉でいうと天。

天を知ることができる。

ところが、

人々は

その心を

「放心」といって

失ってしまう。

戦後の社会は

最も心を失いやすい、

放しやすい。

個人が個性を失ってしまう。

個人としての

主体性、

自主性を失って、

いわゆる

大衆に混じってしまい、

組織人と化して

社会的な分子になってしまう。

また

近代の雑駁な感覚文化、

刺激的な

享楽的な

物質的生活のために

人間性を失いやすい。

その心を存し、

養う、

失わないように保存する。

そうして

その心の実体、本質、性というものを養う。

それは

天に事(つか)うる所以(ゆえん)である。

大自然に、真理に忠実な所以である。

人生の五計ということがある。

人間は

いかに生きるべきか、

それをはかるのが生計。

この身をいかに役立てるかというのが身計。

そして、

人間は家を成す動物であるから、

いかに家を治めるかが家計。

人間は歳をとる生物である。

いかに老いるか、老計が大事である。

と同時に、

死ぬということは

単なる死、

滅亡ではなくて、

死は

即ち

生である。

生死一如であるところに到達する。

いかに死すべきか、これは死計。

そういうふうにしてゆけば、

いや

早死にだの、

長生きだのということは

問題ではない。

同じことである。

殀寿(ようじゅ)不貳(ふじ)である。

「殀寿(ようじゅ)貳(に)ならず、

身を修めて以って之を俟(ま)つは、

命(めい)を立つる所以なり」。

ここで「命(めい)」ということにぶつかる。

 <命>

 『論語』堯日篇より

−−−原文の日本語訳−−−

命(めい)を知らざれば

以って君子たること無きなり。

礼を知らざれば

以って立つこと無きなり。

言を知らざれば

以って人を知ること無きなり。

−−−原文の解説−−−

「命(めい)を知らざれば

以って

君子たること無きなり」

「命」というのは

普通

「いのち」

と言っておりますが、

普通に

「いのち」

というのは

「命」のごく一部分にすぎない。

「命」という言葉について

誰もが

まず

直覚することは、

人間の恣意、

ほしいままな気持ち、

人間の

無自覚な本能や

衝動というようなものでは

どうにもならない、

絶対的、

必然的な

何かの意味を

この「命」で表わしていることである。

だから

同じ「命」でも

命令といえば、

違反することを許されない

権威を持った指図ということになる。

我々の生命は

なぜ

生命というか。

生の字に

なぜ

命という字を付けるかというと、

我々の生きるということは、

これは

好むと好まざると、

欲すると欲せざるとにかかわらない、

必然であり、

絶対なものである。

「おれはどうして生まれたんだろう」

というのはナンセンスである。

それは個人の妄想にすぎない。

西洋哲学でいうと、

アブソルート absolite、先天的、

あるいは

絶対的なものである。

そこで

その

絶対性、

必然性、

至上性、

それを表わすために

命(めい)を付けて

生命というのです。

 <命名の意義>

それでわかるでしょうが、

「命名」とはどういうことか。

これも浅薄に考えて、

命名とは

名を付けることだと考えるのですが、

そんな簡単なものではない。

命名というからには、

この子供には

こういう名でなければならない。

この名が

この子供に

絶対的な意味を持っている。

この子は

この名のごとく

生きねばならない。

こういう

必然、

あるいは

絶対の意味をもって付けて初めて

命名ということができる。

初めて生まれた男の子だから

「太郎」としておこうかなどというのは

「付名」であって

「命名」とは言わないのです。

けれども、

そういう意味で

我が子に命名する親は

案外少ない。

それどころか、

ずいぶん無責任なのがある。

自分は

この子を

京都で生んだから

「京子」と付けたなどというのは、

心がけのよくない付け方です。

京都で生まれた娘なんていくらでもいる。

これは意味がない。

その反対に、

せっかく

親父が

苦心して

真剣に付けた名前を

倅(せがれ)が

全然

意味を知らないというのがよくある。

自分の名前が

どういう意味を持っているのか知らないくらい

間抜けはないだろうと思うけれども、

そんなことで

人生のわかるわけがない。

このあいだも

ある人に

名前の意味を

こんこんと

説明してあげたら、

「はあ、私の名前にそんな意味があるんですか。

大したもんですな」と、

ご自分は

一向

たいしたものでもないというのは、

名前と人と矛盾している、

いわゆる名実伴わずというやつで、

ろくなことはないわけだ。

そこに

性名学というものの存立し得る根拠がある。

 <立命

 そういうふうに、

「命」というのは

絶対性、

必然性、

数学的に言うならば、

必然にして十分という意味を持っている。

だいたい

どんな哲学や科学でも、

究(きわ)め尽くす、

究尽してゆくと、

必ず

そこに

絶対的、

必然的なものがある。

そこで

これを

「天命」という。

自然科学は

この天という「命」、

必然的

絶対なるものを、

物の立場から

研究、究尽していったものである。

そして、

科学的法則を

いろいろ把握した。

これは

いわゆる

「命を立つ」である。

哲学は哲学、

宗教は宗教、

それぞれの立場から

天命を追究して、

これが天命であるというものを

いろいろ立てていく。

これが「立命」である。

人間も

研究すれば

だんだん

必然的、

絶対的なものに到達する。

いわゆる

「人命」というものを

究明することができる。

「命を知り」、

「命を立てる」

ことができる。

そういうふうに

命を研究すると

初めて

我々の命、

生命というもの、

人命というものの中に、

実に複雑微妙な因果関係があることを

知ることができる。

これを「数(すう)」という。

 <命数>

 「数」というのは、

すべての実在の中に存在する

複雑微妙極まりない

因果の関係をいう。

「命」は「数」である。

「命数」というと、

やれ五十で死んだとか、

八十まで生きたとかいう。

数(かず)のことだと思うが、

それは「命数」の一部分にすぎない。

「命数」の

極めて常識を超えたもののことを

「数奇」という。

通俗にいえば、

金持ちとか

名士とかの家に生まれて

大事に育てられた人は、

どんどん出世もして

幸福に暮らすのが当たり前。

ところが

そういう家に生まれたにもかかわらず、

特に

運命的にいうならば、

かえって

生まれたがために、

あっちに遊び、

こっちに遊び

享楽生活に沈溺して、

そのうちに

つまらない女と一緒になって、

堕落の果てに

毒を飲んで自殺したなどというのを

「数奇」という。

尾張中村の名もなき人間の子が、

行商をしたり、

その辺をうろついているうちに

だんだんのし上がって

関白太閤になったなどというのは

数奇とはいわない。

人間は

悲劇が好きだから、

悲劇とか破局

多く

数奇という。

本来で言えば

秀吉なんかも

数奇の人なのだが、

多くは

悲劇的な場合にいう。

万乗(ばんじょう)の天子に生まれたのが、

革命のために没落して

僧侶になって

入定(にゅうじょう:高僧が死ぬこと)したという、

明(みん)の太祖の

お孫さんの

建文皇帝というのがいる。

叔父さんが

天下を取ってしまった。

その叔父さんが

即ち

明の

有名な

永楽大帝である。

その間の一大ドラマが

明史に描かれておる。

それを

『運命』

と題して、

幸田露伴

一大雄篇を作り上げた。

これは

露伴

最大傑作のひとつといわれる。

これなどは

数奇というものの代表作であり、

実に名文である。

感心して

私は

明史を取り出して

比較してみたら、

文章の八割は

『明史』を翻訳して、

それをつないだものである。

露伴先生の文章かと思ったら

実は『明史』であった。

しかし、

それを

うまくつなぎ合わせたのは、

名医が立派に手術したようなもので、

大手腕である。

<運命と宿命>

 こういうのが

即ち

「命数」である。

みな

それぞれ

独自の命数の下(もと)に生きている。

人生そのものが

一つの「命」である。

その命は

少しも停滞しない。

動いて止(や)まない。

光陰歳月と同じことで、

動いて止まないから

これを「運命」というのである。

あなたは

幾つまで生きて、

いつ火事にあって、

いつ病気をして・・・

というようなことを

八卦見のところで観てもらうのは、

これは「宿命」という。

宿とは「とどまる」という字である。

人間、運命である。

運命であるから

どこまでも動いて止(や)まないが、

そこに「数」がある。

おのずから法則というものがある。

人間は

機械的になればなるほど

自主性、変化性のないものになる。

そこで

自然界の物質と同じように、

その法則をつかむと、

それに支配されないようになる。

そうして

自主性を

だんだんに深めていったならば

創造性に到達する。

つまり

クリエイティブになる。

自分で自分の「命」を生み、

運んでゆくことができるようになる。

つまり

「宿命」というものにならなくなる。

我々の「命」を

よく

「運命」たらしめるか、

「宿命」に堕させしむるかということは、

その人の学問修養次第である。

これが命を知る

知命」。

命を立てる

立命」の

大切な所以である。

人間は

学問修養をしないと、

宿命的存在、

つまり

動物的、機械的存在になってしまう。

よく学問修養をすると、

自分で

自分の運命を

作っていくことができる。

いわゆる知命立命することができる。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

ここでは

いろいろな言葉の説明が出てきましたが、

特に

『尽心』という言葉の解説は、

二度や三度読んだくらいで

分かるものではなくて、

ある程度

何らかの分野で

研究を

究極まで

突き詰めてやってみた

というような人でないと、

とても分かるものではありません。

ですから、

まだ

若くて

社会経験のない人には

何が何だか

分からなくても

当然です。

それほど、

突き詰めて

考えに考え抜いた結果として到達した

原理とか原則というものです。

二年や三年の、

にわか勉強で

どうにかなるというものでもない。

いろいろな人に揉まれて、

社会生活での辛酸を

嘗め尽くしたような人なら、

即座に腑に落ちることでしょう。

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